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あまね誕生

前回の記事 を書いた後、本当にあまねが誕生しました。 2018年 7月23日 月曜日 15時45分 あまね誕生の日付と時刻です。 出生時体重は3100gでした。 もう1週間が経ちます。 ご報告が遅れてすみません。 分娩室には夫も入れず、ましてや子どもは病棟にも入れないということで、 娘はぼくが朝に帰宅し、準備して保育園に預けていました。 14時45分頃まで陣痛室に付き添っていたぼくは、看護師さんと相談の上、 いまのうちに保育園に長女を迎え、母に預けるためにいったん病院を出ました。 そして長女を母に託し、あと10分以内に病院に帰るというとき、 妻からの電話が鳴りました。 妻の声は、仕事を終えた時の、 そして素直には帰りたがらない娘と一通り格闘したあとで降園させるときの、 疲れと解放の喜びの、それに加えて新しい未知の喜びに直面したときの、 少し弱弱しく震えたような声。 「あまねくんが生まれました」 それを聞いたぼくは瞬間目に涙があふれて、 「え!? もう? ほんとに?」 「よかった!」 「がんばったね!」 等、今となっては何を言っていたかわからない、でもごく当たり前な言葉の数々を大きな声でまき散らしていました。 電話を切ってまず思ったのは、 妻が今の電話をスピーカーホンでしていたらどうしようということでした。 さっきのわめき散らしが看護師さんやお医者さんたちに筒抜けだったかと。 出生の瞬間に立ち会うことは当初からできない予定でしたが、 とうとう生まれたか。 隣の部屋の産声を壁越しにでも聞きたかったな。 早く会いたいな。 そんなことを思いながら妻のもとに急ぎました。 それにしても、なぜ涙があふれてきたのだろうかと不思議に思います。 涙が出そうだと感じる間もなく「生まれました」を聞いたとまったく同時に、 涙がこみあげてきたのです。 長女の誕生のときもそうでした。産声と同時に涙。 その瞬間に対して何ら批判的思考をする間もなくです。 生まれるまではわが子の存在を、現に妻のお腹に命が存在するにも関わらず、 なかなか実感することのできなかった自分が、 一瞬にしてその存在を確かにこの現実世界に受け止めるような。 生まれたのはわが子でもあり、また同時に新しい自分自身でもあるのではないか、 ふとそんな思い付きをもてあそびたくなるような、不思議な経験です。 あまねが誕生して1週

明日、いや、今日?

妻とauのビデオパスで、『15時17分発、パリ行き』を観ながら、前駆陣痛の間隔をはかっていました。 「これは明日やな」と妻が言います。 映画を観ながら日付をまたいだから、今日、でしょうか。 「人生に導かれている」 これが映画の中の重要なキーワードで、タイトルの「15時17分」も偶然ではなく、「人生に導かれ」た結果の時刻なんですね。 もしかすると今日、あまねくんにとって、ぼく達家族にとって大切な時刻が刻まれるかもしれません。 もしかするともう少し先かもしれません。 これを書きながらも「刻一刻」の重みを感じます。

視線

お腹の子がダウン症とわかってから、街のなかでダウン症をもつ人を見かけることが多くなりました。 バスや地下鉄の中で、病院で、回転寿司のお店で。 先日、地下鉄のなかで、ぼくの座った斜め向かいの席に、ダウン症のお子さん(といっても高校生くらいに見える)とお母さんが座りました。 喉の調子が悪かったのか、お子さんは少し咳き込んでいて、お母さんが水筒の飲み物を口元に運んで、飲ませておられました。とても優しそうなお母さんでした。 その光景は、ぼくにとっては自分たちの未来に思えます。だから、お母さんがどんな風にお子さんに関わっておられて、そのときお子さんはどんな様子か、じっと見ていたくなります。 でも、人をじっと見ることは、普通は失礼なことでしょうし、相手の方たちがどんな風にぼくの眼差しを受け取られるかわかりません。ぼくがどんな人間で、どんな子の親なのかはその人たちにはわからないので。 だから目を伏せて、でもときどきちらりと盗み見て、その人たちの関わりのやさしさや信頼を感じていました。目があってしまわないように気をつけながら。 でもぼくも2歳の長女と公共交通機関を利用することがありますし、娘が大きな声で何かを言ったり、がさがさとしたりしたとき、また、特に何もしていないときとき、誰とも目があってなくても眼差しを感じることはありますから、前の座席のおふたりもぼくの視線に気づかれていたかもしれませんね。 予定日まであと一週間。 生まれてくる子からはじめてぼくに注がれる眼差し、 ぼくがその子に注ぐ眼差しはどんなで、 またぼくらが一緒に受ける人からの眼差しはいったいどこでだれからどんな風に注がれるのでしょうか。 早くも、ダウン症をもって生まれてくる子と自分がお出かけをしているところを想像しています。

イカリエ-XB1

またSFの話になりますが、『イカリエ-XB1』という映画を観てきました。 1963年制作のチェコスロバキアのSF映画です。 ちょっと古いですが、映画好きとしては 60年代SF チェコ映画 それだけでどうしても興味をそそられるで観てきました。 オープニング、画がすごくスタイリッシュでかっこいいです。 地球外の生命体探査のためにある宇宙船が旅をしていて、 物語はほぼその宇宙船内で進みます。 (最前列に座って、少し体を寝かし気味に観たら、途中で数分間寝ました) 途中で「ダーク・スター」なる天体に遭遇して、そこから放出される放射線で 乗組員たちは疲労感に襲われ、眠たくなって寝てしまいます。 (映画自体も「放射線」を出していて眠くなるという噂です) しかし終盤で、ダーク・スターの影響から彼らを救った何者かの存在が明らかになります。 それはダーク・スターの先にある白い惑星の生命体に違いなく、 船はその惑星に降下することになります。 そしてまさにそのタイミングで、妊娠していた乗組員のひとりが子供を出産することになり、 生まれたばかりの赤ちゃんが大写しになります。 なんだか予想しなかったハッピーエンドに進んでいく感じがしました。 遭難したまま宇宙の闇に消えていくみたいな結末を予想していたので。 艦長だったか、こんなことを言います。 一時間後にわれわれは降下する。 そこは地球ではない。 ダーク・スターの放射能からわれわれを守った生命体のいる星だ。 われわれは生命体を探しに出かけたが、 われわれのほうが見つけられた。 あまねは今月末に生まれてくる予定です。 まさに「一時間後」にそれを控えているような心境です。 地球ではない、これまで生きてきたのではない世界に降下するような、 そんな気持ちになっています。 長女が生まれたことも未知の体験ですが、 うちの場合は二人目でも未知の体験です。 そして「われわれのほうが見つけられた」というセリフと、生まれたばかりの赤ちゃんのカットが、今の自分の状況にぐっときて、 とてもいいハッピーエンドの映画を観たような気もちになりました。 惑星に降下してからの出来事は映画では描かれていなかったので、 その先はどうかわからないのですけどね。 しかし、とにかくもうすぐです。