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10月, 2018の投稿を表示しています

うさぎとかめ

少し前にうちのテレビにAmazonのFire TVを付けたところ、 2歳の長女がYouTubeに夢中になってしまいました。 放っておくと連続再生で「関連のある」らしい動画を次々と見続けるので、 お約束をしてきりのいいところでやめる、というお互いの訓練の時間になってます。 絵本や他のおもちゃ、お絵かきやワークに気持ちを振り向けて一方通行のコミュニケーションに終わらないように、と。 YouTubeでどんな動画を見るかというと、「どんぐりころころ」や「うさぎとかめ」などの童謡、 英語でアルファベットや色を覚えようといった内容のもの、 その他もろもろ、ただ広告収入を得るために手抜きで作ったいい加減な動画も含めてさまざまです。 *** あるとき「うさぎとかめ」の動画を何種類か続けて観て(観させられて)いて、ひとつ気になったことがありました。 童謡「うさぎとかめ」の一節にこんな歌詞があります。 なんと おっしゃる うさぎさん そんなら おまえと かけくらべ むこうの 小山(こやま)の ふもと まで どちらが さきに かけつくか 歌詞にははっきり「ふもと」とあるのに、ほとんどの動画は山の頂上にゴールの旗をたてて描いているのでした。 たくさん観ましたが、ぼくが観た中では、ふもとにゴールを描いている動画は一つだけでした。 他の動画の作者は「ふもと」の意味を知らないのか、見栄えを考えて歌詞の意味を無視したのか、どちらかだろうということで済ませていました。 ところがきょう車を運転しながら、この「 ふもと 」に、 この有名なイソップの寓話の肝心な意味を解くカギが隠されているんじゃないかと思ったのです。 ぼくはこれまで漠然と以下のように考えていました。 カメは足が遅いが、うさぎは速い 普通ならカメに勝ち目はない しかしうさぎは油断をして居眠りをし、カメはコツコツ歩み続けたので勝負に勝った 教訓としては、うさぎにとっては油断大敵、カメにとっては何事もコツコツやればチャンスがある、というくらいに。 しかしこれでは、 油断さえしなければ 「うさぎのほうがカメより速い」というところから優劣を決める軸が移らず、根底に「実はうさぎのほうが優れている」という判断をひそめたまま、カメには「それでも努力したカメはえらい」といういわば「上から目線」の称賛をおくって

わたしの日々はあなたの書にすべて記されている

きょう、旧約聖書の詩編139編に久々に目を通しました。 あなたは、わたしの内臓を造り 母の胎内にわたしを組み立ててくださった。 わたしはあなたに感謝をささげる。 わたしは恐ろしい力によって驚くべきものに造り上げられている。 御業がどんなに驚くべきものかわたしの魂はよく知っている。 秘められたところでわたしは造られ 深い地の底で織りなされた。 あなたには、わたしの骨も隠されてはいない。 胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。 わたしの日々はあなたの書にすべて記されている まだその一日も造られないうちから。 あなたの御計らいはわたしにとっていかに貴いことか。 神よ、いかにそれは数多いことか。 数えようとしても、砂の粒より多く その果てを極めたと思ってもわたしはなお、あなたの中にいる。 (新共同訳聖書 詩編139編13節~18節) 人それぞれにとって、神がいるか、いないのか、その問いに対する答えは違うことでしょう。 しかしこの詩の作者は自分の存在の物語を、神が自分を造ったという 意味をこめて 歌っています。 自分の肉体や、存在の原因は自然科学的な因果関係によって記述可能なものとぼくは思います。 おそらく複雑にさまざまな要素が絡み合いすぎていて、ほぼ不可能であろうとはいえ、 自分がここに存在するに至る道筋に、時空におけるひとつ、ひとつの粒子の出会いや、遺伝子の情報や、そういったものが数珠つなぎになっていることを想像することはできます。 でも自分の存在の意味をそのような自然科学的な因果関係の結果に「過ぎない」としてしまうと、 人生はおそらく「無意味」になってしまう。 たとえ偶然に左右される自然科学的な因果関係の帰結が現在の自分「であっても」、 未来や過去に向かって意味を与えていかないと、生きることはとても辛い。 * * * あなたは、わたしの内臓を造り 母の胎内にわたしを組み立ててくださった。 この部分を読んだときにぼくはあまねのことを考えました。 あまねは自分の存在をどのように意味づけるだろう、と。 自分の心臓の房室中隔欠損をさして、 あなたは、わたしの内臓(欠陥のある心臓を含む)を造り 母の胎内にわたしを組み立ててくださった。   と歌うでしょうか。 自分の21番目の染色体