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4月, 2018の投稿を表示しています

ちょっとだけ違って見えはじめた世界

生まれてくる子がダウン症とわかって2ヶ月。 (無事に)生まれてくるまでおよそ3ヶ月。 まだまだその子を迎えるのに充分な備えができたとは言えないし、実際に生まれたときに自分の気持ちがどんな風になるのか、途方もなさそうな大変さに崩折れているのか、いや、やはりわが子は可愛くて可愛くて、なんとも言えない幸せな気持ちで腕にその子を抱いているのか、想像もできません。 妻がいて、娘がいて、これまで通りに日々を過ごしていて、大きな変化の予感が薄いというのが正直なところです。だから自分は覚悟が足りないのかなと思ったり。 でもこれまでと少し違ってきたことがあります。 不思議なのですが、エコーで異常が見つかって出生前診断を受けることになった頃から、街なかで、交通機関の中で、回転寿司のお店で、成人のダウン症の方を見かけることが急に増えたのです。お母様といっしょにお寿司を食べておられたり、バスに乗って携帯で(おそらく家族の方と)お話していたり。同じ人に何度も会うこともありました。 出生前診断診断の結果(陽性でした)を聞く前のぼくは、それをなにか神のお告げのように感じていました。次にお前のところに生まれてくる子はダウン症だぞ、と。 同時に、出生前診断を受けることになって、ダウン症のことをこれまでよりも意識するようになったから、今まではよく見えていなかったかもしれないダウン症の人たちを無意識に目で追うようになっただけだとも思っていました。 しかしいずれにせよあの時期は本当によくダウン症の方を見かけたので不思議だなと感じることは本当なのですが。 そうやってダウン症の方を見かけるようになって感じたのは、その人たちを見つめる自分の心の変化です。 家族ではない他人なのに、とても親しいような、温かい気持ちになる。 長女が生まれてから、よその赤ちゃんも可愛く見えはじめた、そんな気持ちに似ています。 バスの中で携帯で話しているダウン症の女性などは、他の人がバスの中で携帯を使っているとちょっと厳しい目で見るだろうのに、なぜか迷惑という二文字は浮かばず、お話が好きなんだな、何を話しているのかな、とむしろ微笑ましく思っている自分に気がついて驚きました。人によっては偽善と思われるかもしれませんし、ダウン症の方を特別視していると快く思われないかもしれませんが、本当にそういう感じ方をしたのです。 不思議なもので、出生前診

内言語に耳を傾ける練習

最近読んだ本、 飯沼和三『ダウン症は病気じゃない 正しい保育・療育のために』(大月書店、1996年)の中に、 こんなことが書かれていました。 ことばは、音声と文字だけからなる言語ではないのです。子どもと接するときに、こうした言語にあらわされていないことばにも耳を傾けることの大切さを知ってほしいのです。 あまねくんは言語発達が(少し?)遅れるかもしれないなと思っています。現在2歳3ヵ月の長女はことばを発するのが早かったのですが、同じようにはいかないのかな、と。 でも口に出すことばにならなくても、内なることば(内言語)で確かに何かをとらえているものとして、積極的にコミュニケーションを図っていきたいなと考えています。 そのためにはそれを聴き取るこちらの「耳」、感性が研ぎ澄まされていないといけないなと思います。 ***** 妻とぼくがまだ学生だったときにこんなことがありました。 ファミリーレストランで友人たちと食事をしたあと、仲間に交じって妻と私が店の外に立っていました。 そのとき雨が降ってきたのですが、ぼくは空気を吸い込んでこんなことを言いました。 「雨の降り始めるときのにおいって好きやなあ」 するとすかさず妻がこんなことを言ったのです。 「なんでそんなこと思ったん? わたしも同じこと思ってた!」 同じ状況(雨が降り始めた)に対して、それぞれ内側で同じことを考えていたのです。 同じことを思う相手がいて、とても嬉しく思いました。 この今よりずっと若かったころの私たちのやりとりは、口に出したことばでのやりとりでしたが、それでも口に出したことば以上の意味内容を共有できたような感覚がありました。 最近は家族同士でも、口に出したことばだけに偏重したコミュニケーションになっていないか。ちょっと振り返って考えてしまいました。 長女に対しても、ぼくは彼女がことばを発することばかり期待していて、彼女のことばにならない何かを聴き取ろうとする姿勢であったか、なんだか反省させられました。 あまねくんが生まれてくる前に、もっと夫婦間・親子間で、内言語に耳を傾ける練習をしておきたいなと思ったのでした。

胎動(はじめまして)

エコーで妻のお腹の子の首のまわりにむくみが見つかってからもう2ヶ月以上経ちました。 妻の検診にに付き添ったその日、これまで通りに元気な赤ちゃんの姿をエコーで確認し、診察で妻が先生から「順調です」と言われ、そのまま帰るのだと思っていました。 そこは長女の生まれた病院で、 生まれる前の検診ではいつも異常がなくて、 ぼくは自分が付き添ったときはエコーや診察などを一連の儀式のように感じていたかもしれません。 でも今年(2018年)の2月7日、 その日は違いました。 エコーはもう済んでいるのに、妻がもう一度エコー検査の部屋に入りました。 そして診察。 そこで先生から首のまわりにむくみのあるエコー写真を見せられながら、「お話」を聞かされたのです。 先生はメモ用紙に「胎児水腫」と書きました。 大きな病院で確認しないとわからないけれど、生まれてすぐに亡くなる場合や死産になる可能性もあると言われました。 そしてこんなことも言われました。 「ダウン症ということも考えられるかもしれない」 ぼくは「とうとう来たか」と思いました。 「胎児水腫」という重い病気かもしれないということよりも、「ダウン症かも」ということのほうが、認識の重みとしてずっしりと心に感じられたように覚えています。 「どんなことがあっても私達は生もうと思っています」 ぼくは先生にそう言いました。妻も頷いていました。 先生は、羊水検査を受けてみたら、ということ、今の週数なら生まないという選択も可能だということを言い添えて、大きな病院宛の紹介状を書いてくれました。 このブログは、自分の子がダウン症かもしれないと聞かされたときの気持ち、 なぜためらわずに「生もうと思う」と答えたのか、 その背景や理由から綴りはじめ、 出産までの経過、 そしてわが家に無事ダウン症の子どもが生まれてからのこと、 その中で感じたことや考えたことを書いていこうと思います。 ***** 妻と娘が隣ですやすやと眠っています。 きょうも妻が「あまねくんがよく動いているから」とお腹を触るように言いました。 すごくよく動きます。 長女のときと同じです。 はっきりと21番目の染色体が3本ある羊水検査の結果を見た(その時に性別もわかりました)ので、お腹の子がダウン症であること