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6月, 2018の投稿を表示しています

おなかをさわる、そこに子どもがいる

妻のおなかにダウン症の赤ちゃんがいます。 妻はよく、 「あ、動いてる、さわってみて」 と言います。 ぼくは手を置いてみて、動くのを待ちます。 そうすると、動かないときもあれば、 ぽこん、 と動くこともあります。 長女のときもそうだったような気がしますが、 ぼくはあまり自分からおなかをさわって、動いているのを感じる、ということをしません。 世の中の多くのお父さんは耳を当てたり、声をかけたりするんだと思います。 でもぼくはあまりそういうことをしません。 なんだかよくわからないのです。 冷たい、と言われるかもしれませんが、 実感として、まだよく理解できないのです。 自分の子? 自分に子どもがいる? 長女の存在すら、まだ不思議に思うことがあるくらいです。 観たことがある方はわかるかもしれませんが、『惑星ソラリス』という映画で、 ソラリスという星の海(知性をもっているらしい海)が、 その星の研究用ステーションに「お客」を送ってきます。 その「お客」はそこに暮らす研究員の過去や記憶に関係する人物の姿で現れます。 主人公の「お客」は故人となった妻でした。 主人公が「お客」として現れた妻に言います。 ぼくがここにいるのが、どうしてわかった いまのぼくの気持ちは、ちょうどその感じに似ているような気がします。 「どうしてここにいる」ではなくて、 何かそれ以上のこと、 自分を、まさにぼくを目がけてやってきたような感じ。 おなかの子が生まれてくるのは楽しみには違いないですし、 生まれたらきっとかわいいに違いないのですが。 その自覚のなさというか、 戸惑い、おののき、のようなものが、 あまり積極的に妻のおなかをさわらない理由かもしれません。 関心がないのではないんです。 でも妻はぼくがあまりおなかにさわらなかったらさみしいかな、 とも思います。  「不思議」に留まらず、「現実」にしっかり立つべきなのかな、とも。

周りの人に助けられるということ

ある雨の日。 長女を保育園に迎えにいくことになっていましたが、抱っこ紐を持っていくのを忘れてしまいました。 これは大変です。 長女はもう2歳なので、歩けますし、階段も自分で昇り降りてきるのですが、保育園からは地下鉄とバスを乗り継いで家に帰るので、その娘の自由さが逆に大変なのです。 駅構内やホームはちゃんと手をつないでいないと、好きなところへ走っていってしまうし、地下鉄やバスの中でもなかなかじっとしているのは難しいです。 おまけにきょうは雨で、靴は園庭のぬかるみで泥んこ。 いつもなら一旦座らせてからすぐ靴を脱がさせてもらっているのですが、きょうみたいに靴が泥んこになってはもう乗る前に靴を脱がせておこうと。 靴を脱がせて、ビニール袋に入れて、あとは抱っこです。 しかしぼくの鞄はリュックでなくてビジネスバッグなのです。 バッグに付属の肩紐もなくしていて、保育園からの持ち帰りの荷物と自分の鞄とを左腕に通し、手首に傘の柄をかけて、その状態で娘を抱っこ。 これがなかなか疲れます。 地下鉄では運良く優先座席が空いていました。 そこで寝転ぶ娘。 起こして、「ここでごろんしないよ」と諭す。 それからぼくが隣に座ると、ぼくを踏み越えて、その隣の方にコンタクトしようとするので、しっかりとホールド。 「すみません」 と言うと、娘を見てにっこりとして下さいました。 目的の駅について、そこからバス停までは抱っこで移動。手をふさがれたまま、改札機にICカードをピッとするのもなかなか難儀です。 バスがやってきました。 バスは混雑していて、優先座席は空いていませんでした。 ノンステップバス内の段差を上がって、後方の空いている席に娘を座らせることに。 そこは二人がけのシートで、窓側に既にひとりご婦人が座っておられました。 娘は座席に座ると、そのご婦人と自分とのわずかな隙間を手で叩いて、 「おとうさん、ここ」と言います。 ぼくは娘の耳元で「狭いからお父さんはそこに座れないよ」と諭します。 しかし娘は、 「おとうさん、ここよ!」 と、さらに大きな声で主張します。 仕方なく、 「じゃあお父さんのおひざに座ろうか」 と言って、娘を抱き上げ、自分が座って娘を膝に乗せると、 「ちがう、ちがうの!」 と駄々をこねて膝から降りたがります。 困りました。 するとご婦人が、「いいのよ、並んで座ってあげて」と言ってくれまし