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明日、いや、今日?

妻とauのビデオパスで、『15時17分発、パリ行き』を観ながら、前駆陣痛の間隔をはかっていました。 「これは明日やな」と妻が言います。 映画を観ながら日付をまたいだから、今日、でしょうか。 「人生に導かれている」 これが映画の中の重要なキーワードで、タイトルの「15時17分」も偶然ではなく、「人生に導かれ」た結果の時刻なんですね。 もしかすると今日、あまねくんにとって、ぼく達家族にとって大切な時刻が刻まれるかもしれません。 もしかするともう少し先かもしれません。 これを書きながらも「刻一刻」の重みを感じます。

視線

お腹の子がダウン症とわかってから、街のなかでダウン症をもつ人を見かけることが多くなりました。 バスや地下鉄の中で、病院で、回転寿司のお店で。 先日、地下鉄のなかで、ぼくの座った斜め向かいの席に、ダウン症のお子さん(といっても高校生くらいに見える)とお母さんが座りました。 喉の調子が悪かったのか、お子さんは少し咳き込んでいて、お母さんが水筒の飲み物を口元に運んで、飲ませておられました。とても優しそうなお母さんでした。 その光景は、ぼくにとっては自分たちの未来に思えます。だから、お母さんがどんな風にお子さんに関わっておられて、そのときお子さんはどんな様子か、じっと見ていたくなります。 でも、人をじっと見ることは、普通は失礼なことでしょうし、相手の方たちがどんな風にぼくの眼差しを受け取られるかわかりません。ぼくがどんな人間で、どんな子の親なのかはその人たちにはわからないので。 だから目を伏せて、でもときどきちらりと盗み見て、その人たちの関わりのやさしさや信頼を感じていました。目があってしまわないように気をつけながら。 でもぼくも2歳の長女と公共交通機関を利用することがありますし、娘が大きな声で何かを言ったり、がさがさとしたりしたとき、また、特に何もしていないときとき、誰とも目があってなくても眼差しを感じることはありますから、前の座席のおふたりもぼくの視線に気づかれていたかもしれませんね。 予定日まであと一週間。 生まれてくる子からはじめてぼくに注がれる眼差し、 ぼくがその子に注ぐ眼差しはどんなで、 またぼくらが一緒に受ける人からの眼差しはいったいどこでだれからどんな風に注がれるのでしょうか。 早くも、ダウン症をもって生まれてくる子と自分がお出かけをしているところを想像しています。

イカリエ-XB1

またSFの話になりますが、『イカリエ-XB1』という映画を観てきました。 1963年制作のチェコスロバキアのSF映画です。 ちょっと古いですが、映画好きとしては 60年代SF チェコ映画 それだけでどうしても興味をそそられるで観てきました。 オープニング、画がすごくスタイリッシュでかっこいいです。 地球外の生命体探査のためにある宇宙船が旅をしていて、 物語はほぼその宇宙船内で進みます。 (最前列に座って、少し体を寝かし気味に観たら、途中で数分間寝ました) 途中で「ダーク・スター」なる天体に遭遇して、そこから放出される放射線で 乗組員たちは疲労感に襲われ、眠たくなって寝てしまいます。 (映画自体も「放射線」を出していて眠くなるという噂です) しかし終盤で、ダーク・スターの影響から彼らを救った何者かの存在が明らかになります。 それはダーク・スターの先にある白い惑星の生命体に違いなく、 船はその惑星に降下することになります。 そしてまさにそのタイミングで、妊娠していた乗組員のひとりが子供を出産することになり、 生まれたばかりの赤ちゃんが大写しになります。 なんだか予想しなかったハッピーエンドに進んでいく感じがしました。 遭難したまま宇宙の闇に消えていくみたいな結末を予想していたので。 艦長だったか、こんなことを言います。 一時間後にわれわれは降下する。 そこは地球ではない。 ダーク・スターの放射能からわれわれを守った生命体のいる星だ。 われわれは生命体を探しに出かけたが、 われわれのほうが見つけられた。 あまねは今月末に生まれてくる予定です。 まさに「一時間後」にそれを控えているような心境です。 地球ではない、これまで生きてきたのではない世界に降下するような、 そんな気持ちになっています。 長女が生まれたことも未知の体験ですが、 うちの場合は二人目でも未知の体験です。 そして「われわれのほうが見つけられた」というセリフと、生まれたばかりの赤ちゃんのカットが、今の自分の状況にぐっときて、 とてもいいハッピーエンドの映画を観たような気もちになりました。 惑星に降下してからの出来事は映画では描かれていなかったので、 その先はどうかわからないのですけどね。 しかし、とにかくもうすぐです。

おなかをさわる、そこに子どもがいる

妻のおなかにダウン症の赤ちゃんがいます。 妻はよく、 「あ、動いてる、さわってみて」 と言います。 ぼくは手を置いてみて、動くのを待ちます。 そうすると、動かないときもあれば、 ぽこん、 と動くこともあります。 長女のときもそうだったような気がしますが、 ぼくはあまり自分からおなかをさわって、動いているのを感じる、ということをしません。 世の中の多くのお父さんは耳を当てたり、声をかけたりするんだと思います。 でもぼくはあまりそういうことをしません。 なんだかよくわからないのです。 冷たい、と言われるかもしれませんが、 実感として、まだよく理解できないのです。 自分の子? 自分に子どもがいる? 長女の存在すら、まだ不思議に思うことがあるくらいです。 観たことがある方はわかるかもしれませんが、『惑星ソラリス』という映画で、 ソラリスという星の海(知性をもっているらしい海)が、 その星の研究用ステーションに「お客」を送ってきます。 その「お客」はそこに暮らす研究員の過去や記憶に関係する人物の姿で現れます。 主人公の「お客」は故人となった妻でした。 主人公が「お客」として現れた妻に言います。 ぼくがここにいるのが、どうしてわかった いまのぼくの気持ちは、ちょうどその感じに似ているような気がします。 「どうしてここにいる」ではなくて、 何かそれ以上のこと、 自分を、まさにぼくを目がけてやってきたような感じ。 おなかの子が生まれてくるのは楽しみには違いないですし、 生まれたらきっとかわいいに違いないのですが。 その自覚のなさというか、 戸惑い、おののき、のようなものが、 あまり積極的に妻のおなかをさわらない理由かもしれません。 関心がないのではないんです。 でも妻はぼくがあまりおなかにさわらなかったらさみしいかな、 とも思います。  「不思議」に留まらず、「現実」にしっかり立つべきなのかな、とも。

時の流れがどんどん加速していきます

ロウ・イエ監督の『ふたりの人魚』という映画を観ていて、その中で流れている音楽から、 ふいに、 独身の頃の自分がヘッドホンで音楽を聴きながら外を歩いている図が脳裏に浮かびました。 結婚するしばらく前、実家暮らしをしていた自分の姿です。 映画と自分の過去やいまの生活にはほとんど重なるところがないのに。 少し懐かしいような色彩と、川の周囲の人々の暮らしを揺れるカメラで切り取る画が、ノスタルジックな気分にさせたのかもしれません。 結婚して、あれからもう11年以上経っていて、娘が生まれてからは2年が過ぎ、毎日子どものために絵本を読んだり、お風呂に入れたり歌を歌ったりし、お腹に2人目の子どもがいて、そして出生前診断を受けてから2ヶ月が経って、今からさらに2ヶ月少し経った頃にはダウン症と診断された子どもが生まれてきます。 人生の車輪がひとつずつ増えて、自分ひとりを運んでいるようだった時が、いつの間にか車輪が4つに増えて、高速道路を走る車のような速さで景色を後ろへ後ろへと流していきます。 なんだかついていけないというような思いもありつつ、どこへどんな風に進んでいくのかという不安もあるようです。 ぼくの場合は、妻と出生前診断を受けて(羊水検査をしたのは妻で、ぼくは何も検査を受けていませんが)、ダウン症のわが子の登場まではゆるやかな上り坂を上っているようで、崖のように急峻な立ちはだかりはないのでしょうが、不安や期待を感じる時間はあるのでしょう。 最近は生まれてくる子のことを考えない日はありません。 きょう家までの帰り道にiPodでシューベルトのピアノ・ソナタを聴きました。 独身の頃と違って、耳の中にも家族がいるような感じです。 考え事をして、聴いているような聴いていないような。 自分の世界をいくらイヤホンで塞いでも、自分だけの世界ではない、共に生きていくべき世界が全身に広がっているんでしょう。 生まれてくる子のこと、長女のこと、妻のこと、また慌ただしくなって加速するだろう生活のこと。一瞬一瞬を、思い出づくりに、教育や療育に、家事や仕事に、大切に過ごすことを心がけていようと、気がつくともうお年寄りの仲間入りをしていそうな、そんな気がします。 この世で悠々と自適に過ごしている図は思い浮かびません。 自分の知っている人の子どもが、しばらくぶりに会うと、信じられないくらい大きくなっていることに...

妻の誕生日

今日は妻の誕生日です。 これから赤ちゃんを産むのですが(7月末予定)、その前にお母さんがこの世に生まれてきたことを祝います。 お腹が大きい中での、からだを使った仕事、家族を支えるためのがんばり、この世は決して楽な場所ではないけれど、幸せをたくさん感じてくれるといいな。 これまで色んな困難がふりかかってきたけれど、乗り越えてきてくれました。一緒に歩いてきてくれた。ありがとう。 これから特別な子がこの世に生まれてくることになっているけれど、その子を通しても苦労を越えた喜びが与えられますように。 妻としてより、 母としてより、 まず人として、そこにいることを感謝され、存在を喜ばれ、たくさんの幸せに包まれてありますように。 お誕生日おめでとう。

内言語に耳を傾ける練習

最近読んだ本、 飯沼和三『ダウン症は病気じゃない 正しい保育・療育のために』(大月書店、1996年)の中に、 こんなことが書かれていました。 ことばは、音声と文字だけからなる言語ではないのです。子どもと接するときに、こうした言語にあらわされていないことばにも耳を傾けることの大切さを知ってほしいのです。 あまねくんは言語発達が(少し?)遅れるかもしれないなと思っています。現在2歳3ヵ月の長女はことばを発するのが早かったのですが、同じようにはいかないのかな、と。 でも口に出すことばにならなくても、内なることば(内言語)で確かに何かをとらえているものとして、積極的にコミュニケーションを図っていきたいなと考えています。 そのためにはそれを聴き取るこちらの「耳」、感性が研ぎ澄まされていないといけないなと思います。 ***** 妻とぼくがまだ学生だったときにこんなことがありました。 ファミリーレストランで友人たちと食事をしたあと、仲間に交じって妻と私が店の外に立っていました。 そのとき雨が降ってきたのですが、ぼくは空気を吸い込んでこんなことを言いました。 「雨の降り始めるときのにおいって好きやなあ」 するとすかさず妻がこんなことを言ったのです。 「なんでそんなこと思ったん? わたしも同じこと思ってた!」 同じ状況(雨が降り始めた)に対して、それぞれ内側で同じことを考えていたのです。 同じことを思う相手がいて、とても嬉しく思いました。 この今よりずっと若かったころの私たちのやりとりは、口に出したことばでのやりとりでしたが、それでも口に出したことば以上の意味内容を共有できたような感覚がありました。 最近は家族同士でも、口に出したことばだけに偏重したコミュニケーションになっていないか。ちょっと振り返って考えてしまいました。 長女に対しても、ぼくは彼女がことばを発することばかり期待していて、彼女のことばにならない何かを聴き取ろうとする姿勢であったか、なんだか反省させられました。 あまねくんが生まれてくる前に、もっと夫婦間・親子間で、内言語に耳を傾ける練習をしておきたいなと思ったのでした。

胎動(はじめまして)

エコーで妻のお腹の子の首のまわりにむくみが見つかってからもう2ヶ月以上経ちました。 妻の検診にに付き添ったその日、これまで通りに元気な赤ちゃんの姿をエコーで確認し、診察で妻が先生から「順調です」と言われ、そのまま帰るのだと思っていました。 そこは長女の生まれた病院で、 生まれる前の検診ではいつも異常がなくて、 ぼくは自分が付き添ったときはエコーや診察などを一連の儀式のように感じていたかもしれません。 でも今年(2018年)の2月7日、 その日は違いました。 エコーはもう済んでいるのに、妻がもう一度エコー検査の部屋に入りました。 そして診察。 そこで先生から首のまわりにむくみのあるエコー写真を見せられながら、「お話」を聞かされたのです。 先生はメモ用紙に「胎児水腫」と書きました。 大きな病院で確認しないとわからないけれど、生まれてすぐに亡くなる場合や死産になる可能性もあると言われました。 そしてこんなことも言われました。 「ダウン症ということも考えられるかもしれない」 ぼくは「とうとう来たか」と思いました。 「胎児水腫」という重い病気かもしれないということよりも、「ダウン症かも」ということのほうが、認識の重みとしてずっしりと心に感じられたように覚えています。 「どんなことがあっても私達は生もうと思っています」 ぼくは先生にそう言いました。妻も頷いていました。 先生は、羊水検査を受けてみたら、ということ、今の週数なら生まないという選択も可能だということを言い添えて、大きな病院宛の紹介状を書いてくれました。 このブログは、自分の子がダウン症かもしれないと聞かされたときの気持ち、 なぜためらわずに「生もうと思う」と答えたのか、 その背景や理由から綴りはじめ、 出産までの経過、 そしてわが家に無事ダウン症の子どもが生まれてからのこと、 その中で感じたことや考えたことを書いていこうと思います。 ***** 妻と娘が隣ですやすやと眠っています。 きょうも妻が「あまねくんがよく動いているから」とお腹を触るように言いました。 すごくよく動きます。 長女のときと同じです。 はっきりと21番目の染色体が3本ある羊水検査の結果を見た(その時に性別もわかりました)ので、お腹の子がダウン症であること...