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手術室へ見送る

ぼくらは越えられない境界の向こうへ、お医者さんや看護師さんといっしょに、あまねくんは小さなベッドに乗って出かけて行きました。 ものすごく寂しい。 家族待合室にはロッカーと洗面台とゴミ箱とベンチだけ。 保育園には長女がいて、 自宅には母が待機していて、 ぼくらだけ、どこかものすごく高い山の麓の小屋に置き去りにされたような気がします。 山に向かって目を上げる。 あまねくんはいつ戻ってくるんでしょう。

明日、いや、今日?

妻とauのビデオパスで、『15時17分発、パリ行き』を観ながら、前駆陣痛の間隔をはかっていました。 「これは明日やな」と妻が言います。 映画を観ながら日付をまたいだから、今日、でしょうか。 「人生に導かれている」 これが映画の中の重要なキーワードで、タイトルの「15時17分」も偶然ではなく、「人生に導かれ」た結果の時刻なんですね。 もしかすると今日、あまねくんにとって、ぼく達家族にとって大切な時刻が刻まれるかもしれません。 もしかするともう少し先かもしれません。 これを書きながらも「刻一刻」の重みを感じます。

君の友だち

You just call out my name And you know wherever I am I'll come running to see you again Winter, spring, summer or fall All you have to do is call And I'll be there You've got a friend ただわたしの名を呼ばわれば どこにいようと わたしは走ってくるだろう、再びあなたに会うために 冬に、春に、夏に、あるいは秋に、 あなたはただ呼ぶだけでいい わたしはそこにいる あなたには友がいるのだ Carol King - You've got a friend まだ出生前診断を受ける前のある朝、 妻は土曜出勤の通勤中に、 ぼくは家で、 それぞれ偶然にもキャロル・キングの同じアルバムを聴いていたということがありました。 「君の友だち」の収録された、キャロル・キングの『つづれおり』です。 そしてきょう、 妻は仕事からの帰り道にキャロル・キングの「君の友だち」を聴いていて、 同じ頃、ぼくは病院の待合室で、誰の歌かはわからないのですが、「君の友だち」のカバーを聴いていました。 妻は毎日キャロル・キングを聴いている、というわけではありません。 示し合わせたわけではないのに、偶然が重なるのは不思議です。 あまねくんにとって、 自分たち親が「君の友だち」に歌われているような「わたし」になれたらいいし、 逆にあまねくんがぼく達にとっていつもそこにいてくれる「わたし」になってくれるかもしれない、 そんなことを思いました。 現に長女の存在はぼくの生を助けていると思うのです。 そして家族全員が、 すぐに駆けつけてくれる大きな存在に包まれながら在れたらいい、そうも思いました。

妻の誕生日

今日は妻の誕生日です。 これから赤ちゃんを産むのですが(7月末予定)、その前にお母さんがこの世に生まれてきたことを祝います。 お腹が大きい中での、からだを使った仕事、家族を支えるためのがんばり、この世は決して楽な場所ではないけれど、幸せをたくさん感じてくれるといいな。 これまで色んな困難がふりかかってきたけれど、乗り越えてきてくれました。一緒に歩いてきてくれた。ありがとう。 これから特別な子がこの世に生まれてくることになっているけれど、その子を通しても苦労を越えた喜びが与えられますように。 妻としてより、 母としてより、 まず人として、そこにいることを感謝され、存在を喜ばれ、たくさんの幸せに包まれてありますように。 お誕生日おめでとう。

内言語に耳を傾ける練習

最近読んだ本、 飯沼和三『ダウン症は病気じゃない 正しい保育・療育のために』(大月書店、1996年)の中に、 こんなことが書かれていました。 ことばは、音声と文字だけからなる言語ではないのです。子どもと接するときに、こうした言語にあらわされていないことばにも耳を傾けることの大切さを知ってほしいのです。 あまねくんは言語発達が(少し?)遅れるかもしれないなと思っています。現在2歳3ヵ月の長女はことばを発するのが早かったのですが、同じようにはいかないのかな、と。 でも口に出すことばにならなくても、内なることば(内言語)で確かに何かをとらえているものとして、積極的にコミュニケーションを図っていきたいなと考えています。 そのためにはそれを聴き取るこちらの「耳」、感性が研ぎ澄まされていないといけないなと思います。 ***** 妻とぼくがまだ学生だったときにこんなことがありました。 ファミリーレストランで友人たちと食事をしたあと、仲間に交じって妻と私が店の外に立っていました。 そのとき雨が降ってきたのですが、ぼくは空気を吸い込んでこんなことを言いました。 「雨の降り始めるときのにおいって好きやなあ」 するとすかさず妻がこんなことを言ったのです。 「なんでそんなこと思ったん? わたしも同じこと思ってた!」 同じ状況(雨が降り始めた)に対して、それぞれ内側で同じことを考えていたのです。 同じことを思う相手がいて、とても嬉しく思いました。 この今よりずっと若かったころの私たちのやりとりは、口に出したことばでのやりとりでしたが、それでも口に出したことば以上の意味内容を共有できたような感覚がありました。 最近は家族同士でも、口に出したことばだけに偏重したコミュニケーションになっていないか。ちょっと振り返って考えてしまいました。 長女に対しても、ぼくは彼女がことばを発することばかり期待していて、彼女のことばにならない何かを聴き取ろうとする姿勢であったか、なんだか反省させられました。 あまねくんが生まれてくる前に、もっと夫婦間・親子間で、内言語に耳を傾ける練習をしておきたいなと思ったのでした。